<秋の四国巡礼に行くぞと決意・発心>

新潟地域退職者連合副会長
(NTT労組退職者の会)
清水 美男

 値上げ前に買い溜めた酒を連日飲み過ぎかなと少し罪悪感を気にしながら、毎朝のウォーキングをしていた10月6日8時半頃に、頭上高く越冬のために日本へ到来を告げる白鳥12羽が鳴いて新潟の空に飛んでいました。行くことは決めていましたがこの瞬間からはっきりと、29回目の四国巡礼八十八ケ所歩き遍路に行こうと決意・発心し、1カ月1200キロメートル歩く準備をいそいそと始めました。

 今回も初日は平場だったので楽しく歩いたが、2日目は難所の焼山寺へ向かう登り降りのきつい「遍路ころがし」と言われるみちが続く、歩き出してすぐにきつい登りとなり「今回はいつものように行けるかな?」と70歳を過ぎた頃からいつも気にするようになりました。しかし1時間ほど登って眺めの良いところで「四国三郎と言われる吉野川」を見ると、疲れもふっ飛びやはり来てよかったと思い前へ歩き続けることができました。いろんな面白い出会いもありそれは後で出てきます。

歩き遍路にはまってしまい「お四国病」に今は銀札>

 思い起こせば四半世紀ほど昔の40代の秋に徳島市において「護憲大会」が開かれた際に、一日遍路を体験してからはまってしまいました。現役中はライフプラン休暇制度などを利用して、区切り打ちをしながら3巡回りましたが、八十八ケ寺1200キロを歩き通したいと強く思うようになりました。そこで57歳の時に妻の職場の早期退職の好条件も手伝い、私も早期退職を決意し春と秋の年2回遍路を楽しんでいます。コロナ禍で休む期間もありましたが、四国を歩きたいという気持ちは衰えることなく、地元四国の人たちの言う「お四国病」の重症患者に、どっぷりとつかってしまっています。

各寺でお勤めするときに本堂と大師堂において、納札というものを入れる箱があり四巡目までは白札で八巡目までは緑札となり、二十四巡目までは赤札で五十巡目までは銀札で百巡目までは金札となります。その上は錦の札となっています。車での金や錦の遍路さん時々会いますが歩きでの銀札の方にはまだ4人ほどしか会っていません。私はベテランの部類に入っているようですが、できれば金札までは歩き遍路で頑張りたいと思っています。(ヤサシイ妻の許可が取れればですが?)

多くの人との出会い、そして自分との出会い>

 おおよそ3年間ほど四国の山河を歩き続けている計算になり、好きな酒もたくさん飲み過ぎています。そこには数えきれない多くの方々との、いろんな出会いがあり続けてます。コロナ禍で3シーズンは休みましたが、去年の令和3年の秋から再び歩き始めました。そして心にしみる出会いがまたありました。私は「令和3年11月17日から一万日後が100才なので四国の地で歩きながら迎えよう」と、足摺岬に向かって歩いていました。そして体の調子もよく足も元気に前に進んで一週間ほどして明日は松山道後温泉に入る前の遍路宿の夕食で、関東の男性の方と話し込むうちに一度目はがんを患っていて車で回ったけど、どうしても歩き通したいと思い区切り打ちをしていて明日は東京へ帰って抗がん剤治療で帰るが、必ず歩き通したいとの強い決意を聞きました。私は次の日から歩ける喜びをかみしめながら、「一万日うんぬん」の話は無しとしました。

 今年の春は徳島市の宿で初めての遍路という東京の方と楽しく飲みながら、「奥さんは新潟の柏崎の出身で・・・」などと歓談したあくる朝、もっと話を進めたら奥さんの兄さんは新潟市にいてNTTの退職者した方だといいます。そしてなんと職場も一緒の事もあった方で、今もNTT労組退職者の会の幹事で会報を手配りしていただいてるTさんでした。「私は新潟市で会長をしています・・」二人で手を握り合い・驚き合いました。人間どこでどんな方と会うのか全く分かりません。帰ってすぐ電話するとともに、今回の出発の前日10月26日の総会でお酒を酌み交わしてきました。

 前章の続きとなります今回は行程の半分ほどの、足摺岬までは何とか順調に行けました。一日40キロほど行程で組んでますが、金剛福寺から次の延光寺までの52キロは1日で歩く最長距離の区間で、春は天候が悪くて5キロほど手前の宿にしました。男性の健康寿命72.68才を一つ上回ったが、まだまだ今回もいけるだろうと思ってました。去年は朝5時半出発で延光寺の朱印をもらって午後4時40分宿到着でした。今年は午前中は例年通りでしたが、午後は2時過ぎから足が伸びません閉門の5時になっても1キロ以上手前でした。年々体力の低下は感じつつ「いやぁまだ体育会系頑張りで行ける・いやぁ行けないの、2人の自分との戦いで」、押し通せない現実を痛感する3時間でした。

 60才後半から酒の飲み過ぎで次の日つらい思いの失敗は何度も痛感して、何とか適量を守れるようになりましたが、今回の自分との出会いは「やはり無理はできない・・」と思いました。後半は温泉泊まりを一日増やし無理をしない計画で歩きました。歩き遍路はもう一人の自分と話し合う時間はたっぷりあります。「あぁだこぉだ・・」と自分で話し合いながら、「適才・適歩」でやっていこうと造語しました。自分の年齢と体と適当からテキトウまでの範囲で、折り合いをうまくつけてライフワークの四国遍路をやっていこうと思っています。これが今回の四国を歩いての大きな成果のようでした

 今回も無事に八十八番大窪寺に着いて結願(けちがん)後に大師堂に向かって右脇に広島に落とされた原子爆弾による火がともし続けられています。そこで最後の般若心経をいつも上げて、平和を祈ることを誓い新潟に帰ることにしています。

 そして雪が解けて白鳥たちの「北帰行」の声を聞くころ、私はいそいそと春の四国巡礼の支度をはじめるのです。