新潟県退職者連合 幹事
林 光弘
青柳和彦は学校を出て就職し結婚するまで、決して母重子を慕うことができなかった。母は自らの家柄ゆえ見合い結婚した夫との距離を感じていた。子どもを溺愛しつつも夫になじんでいく成長していく和彦を疎ましくも思っていた。結婚に反対する重子、説得を試みる和彦との間を縮めていく「思い」を中原中也の詩が使われた。幼いころの思い出や傷ついている今、今もこれからも果てない悲しみを中原中也の「別離」「序歌」「月夜の浜辺」などを用いて重子と和彦がそれぞれの寂しさと思い、そして距離感を詩で吐露しあっていた。
「ちむどんどん」のプロヂューサーか脚本家かわからないが相当に中也に入れ込んでいると確信したのは愚かにもお盆前だった。重子と和彦がたびたび会う喫茶店の名前が「サーカス」と気づいたのだ。「サーカス」は中也の代表的な詩のひとつだ。
幾時代かがありまして 茶色い戦争ありました
幾時代かがありまして 冬は疾風吹きました
幾時代かがありまして 今夜此処(ここ)での一(ひ)
と殷盛(さか)り今夜此処での一と殷盛り (以下略)
しゃべりが尽きなくなってきた、でも続けよう。中也は軍医の裕福な家庭に生まれ、幼い頃より優秀だったが、短歌などに入れ込み山口中学を落第した。立命館中学に編入し京都へ、高橋新吉の影響を受けダダイズムに傾倒していく、知り合った女優長谷川泰子と上京する。
富永太郎や小林秀雄を通じてフランス象徴派詩人の影響も受け、音律やオノマトペにすぐれその才能を発揮し、抒情詩を中心に多く作ってきた。抑えようのない悲しみや苦しみと向き合う術を知らず酒や詩にぶつけられた。酒もよく飲んだようで誰構わず文学論を振りかざし議論をふっかけていたようだ。友人である小林秀雄に長谷川泰子を奪われ大きなショックを受けた。
「どっこい甚句」をジャックする気は更々ないのだけれども、もうしゃべらずにはいられず、私にとってぶつける場所がここしかなく書いてしまった。許されよ。「中也の会」は全国で300人足らずだが、山口市の全面的なバックアップの元、記念館もありそれなりの研究会だ。(今のところ)県内には二人いるだけのようだ。「ちむどん」で中原中也がメジャーになってしまったが、「会」では大騒ぎになっている。ちなみに「山羊の歌」「在りし日の歌」初版本はそれぞれ数百万円単位で取引されているようだ。「在りし日の歌」は死んだ祖父の家にあったので私が盗んだ。
(Z)