新潟県退職者連合 監査

(UAゼンセン友の会 新潟県副支部長)

 西村 幸子

 昭和39年6月16日、私にとって一生忘れることのできない日です。今から56年前、新潟地震が起きた日です。新潟地震は高校3年生だった私の人生の方向を決めてしまう出来事となりました。
 
 調理の実習が終わって、教室に戻ろうと廊下を歩いていると、急に校舎が揺れだしました。「地震だ!」と思い、必死になって外へ飛び出しました。地面が揺れる中で、全校生徒がテニスコートに集まりました。その時、東の空に真っ黒な煙がもくもくと上がりました。それが、昭和石油のタンクの火災と知るのにだいぶ時間がかかりました。それまで、わりと冷静だった私は、全身から血の気がひいたようになり、ぶるぶる震えだしました。私の家は昭和石油からかなり離れているとはいえ、山の下にあるのです。妹たちのこと、父のこと、家のこと等を考えるうちに頭がボーとして、立っていられませんでした。
 
 揺れがおさまり、学校から帰された私たちが目にした街の様子は、たいへんなものでした。地割れ、斜めに傾いた家、車が通れないほど崩れてしまった橋、地震の恐ろしさを、まざまざと見せつけられました。学校町から八千代橋を通り、津波で水浸しになった沼垂を通って1時間30分かかって、家に着いた時、何度も転んだため私の制服はびしょびしょに濡れていましたが、全身の力が抜けるようでした。
 
 父は会社から2人の妹は学校から無事帰って来ていました。母は朝旅行に出かけて留守でした。「これからご飯を食べて逃げる」と言う父の言葉に、私は急いで濡れたものを着替え、軽く食事をして近くの紡績山へ避難しました。生まれて初めて知る災害の恐ろしさに、食べ物は喉を通らず、手足は小刻みに震えて止まりませんでした。赤々と燃え続ける昭和石油の火災の中で一睡もせずに時を過ごした私たちは、ようやく白んだ空に、なおも衰えを見せずに燃える炎を見ながら、夜露に濡れた布団や毛布を持って、いったん家に帰りました。そして、布団の中に潜り込んで、しばらくの間ぐっすりと眠り込みました。
 
 火の手は昭和石油から民家へ移り始め、空は真っ暗、晴れているはずなのに、雨が降っているようでした。白い火の粉のような物が飛んできて、家にいるのは危険でした。逃げる先のあてもなく、黒煙に追われるように家を後にしました。何だかとても惨めで、涙が出てしかたありませんでした。行った先は木戸小学校でした。なだれ込むように、避難民が殺到しました。
 
 水素ガス爆発の恐れが無くなり、民家への延焼もおさまった3日目の朝、木戸小学校を出て家に向かいました。早く家に帰ってゆっくり休みたいという私たちの願いも虚しく、家の周りは一面川のようになっていました。これからどんどん水が増すというので、今度は水に追われて木戸小学校へ逆戻りです。
 
 避難民として過ごした木戸小学校での一週間は、災害の恐ろしさとともに人間同士の結びつき、公共機関との関わり、社会の仕組みを知る等いろいろなことを体験しました。
「死にたくない」と私の手を握りしめ、泣きながら歩き続けた妹たちの姿を時々思い出します。
 
 あの日から56年の歳月が流れ、その間、地震や水害や雪害などの自然災害が多発しました。今年になって誰もが想定していなかった新型ウイルスの感染が拡大し、収束の目途がたたない状況が今も続いています。目に見えない恐るべきウイルスの感染によって、私たちの暮らし方が大きく変わりました。新しい生活様式を模索しながら、災害によって表面化した多くの問題を解決していくことが、私たち一人ひとりに与えられた課題と思います。「誰をも取り残さない」社会の実現をめざすことが急務です。