糸魚川地域退職者連合 顧問

猪又 好郎

 私の住む寺町は糸魚川市で1番大きな自治区で、寺町・南寺町・東寺町と3地区に分かれて、それぞれ郵便番号を持っています。

 元々は寺町で北陸線から北側の浜辺の集落が成り立ちで、昭和20年以降、田畑であった北陸線から南側の地に居住する人たちが増えて大きな自治区へと発展してきました。
 
 元々である寺町に「琴平神社」があります。古文書によりますと文化5年(1808年)江戸時代末期に遷宮されたとあります。海難防止や豊漁と当時発生した大火などの災害を鎮めるために遷宮されたと伝わっています。
 神社としては他の神社と比べてそんなに古いものではありません。
祭礼は春4月10日、秋10月20日に催され神事を行います。
 
 糸魚川市は昔から大火の多いところで幾度も被災しています。近くでは平成28年12月22日に発生した駅北大火(147棟焼失)がありました。
遷宮当時は石の祠であったようですが、現在は100坪の敷地に木造の拝殿が建っています。
 
 琴平神社は昭和3年の大火で類焼し、その後の建物であるようです。
入り口の石柱には、大正15年に参道灯篭などを改修したと刻まれており、敷地を囲う石垣には寄進者の名があり、当時の資産家たちの名前があります。
 発起者の内には「今町〇〇漁○○」と刻まれているのが読めます。
今町とは現在の直江津の古名であり、海運の神様を奉ることから広域から寄付を募ったことを伺い知ることができます。
 
拝殿内に2つの額があります。1つは「琴平神社」とあり、鳥居に掲げる「額」の原字のようです。「額」には署名があり「後藤象二郎」と記されています。
後藤氏は1836年~1897年の生涯で明治前半、自由民権運動などで活躍した政治家でした。新政府参与、大阪府知事や第2次伊藤内閣で農相大臣にもなった大物政治家でした。
                 
もう1つの「額」は「楽幢労謹(ラクドウロウキン)」(右読み) 昭和6年春、「東郷平八郎」と署名されています。東郷氏は1848年~1934年の生涯で明治・大正期の代表的な海軍軍人で元帥でした。戊辰戦争にも参加しており、日露戦争でロシア軍のバルチック艦隊を破ったことで有名です。
 
 何故このお2人の「額」が片田舎の神社にあるのか経緯は分かりませんし、そもそも「額」が在ることすら地元では知らないのです。
 東郷平八郎は年代的に近い相馬御風の存在が想像されます。御風の生家は琴平神社から僅か50m足らずの所ですので、何らかの縁があったのだろうかと思いますが、御風は1883年~1950年の生涯です。
 御風は郷土の優れた歌人、詩人であり、早稲田大学在学中に校歌「都の西北」を作詞しており、童謡「春よ来い」の作詞者で知られていて、良寛の研究でも有名です。この2つの「額」の真贋を調べた人は誰もいません。
 
 神社の敷地は上杉謙信公が糸魚川への遊覧の折、この地で休憩したところで時の越後守護が縁の地であり、尊い場所であるとして樹木を植えて、人家を建てさせなかったという土地でもあります。