人間万事塞翁が馬か
早川 武男(新潟県退職者連合会長)
父の戦死公報を受け取った後、母は3人の子どもを育てるため、後家のふんばりというか必死に頑張ったようだ。が、戦後の混乱期は乗り切ったものの、とうとう刀折れ矢が尽き? 私は越後直江津で子ども亡くしたご夫婦のお世話になった。
戸籍上、ご夫婦は養父母となった。もしお世話いただけなかったら、私は風雨にさらされ、シャボン玉のように壊れて消えていたであろう。だから本当に感謝している。盂蘭盆の墓参はむろん欠かさない。ただ、養父母にはよく折檻された。顔がいびつになるほど殴られ、足腰が痣だらけになるほど蹴とばされ外出できなかったこともある。心配する隣家には躾と言われていたようだが、なかなか懐かない私への感情の爆発ではなかったか・・と思う。何回か出奔したが挫折した。実家は赤貧洗うがごとしだったからだ。
養父は4年ほどで、養母もその後何年かして鬼籍に入られたが、臨終の枕もとで、私の心のどこかに棲みつく悪魔が〝亡くなれ〞と呟いていた。
ところが、この養父の遠戚に新潟県議会議員、衆議院議員を担われた木島喜兵衛先生がおられ、電電公社への就職や、人生の師となる石田庄治元全電通新潟県支部委員長(元上越市議会議員)を紹介して下さった。人間万事塞翁が馬ということか、お二方のお陰で良き先輩・同志に恵まれ、つつがなく全電通の専従役員生活を送れた。
かつて棲みついていた悪魔も歳月の流れとともに、いずことも無く立ち去った。
行商しながら長兄を大学に進ませた母は、都心には戻れなかったものの小田急沿線の町田に居をかまえ、穏やかにすごしたが還暦後まもなく長逝の途についた。