どうも馬齢を重ねただけのようだ
会長 早川 武男
新潟日報が連載している、エッセイストの飛鳥圭介さん執筆のコラム「おじさん図鑑」が面白い。
「おじさん図鑑」は、おじさんたちの妄想、夢、希望、失望、怒りなどを織り交ぜて、現実の生活の中での喜怒哀楽を描いたもので、仄聞すると、東京新聞や中日新聞、北海道新聞などでも連載されているそうな。
4月中旬に『日暮れて道遠し』と題しで、「冷汗三斗」(れいかんさんと)の読みを「ひやあせさんと」と間違えていたこと。「悪評さくさく」の「さくさく」とは賞賛する意味であり、「悪評さくさく」は間違った使い方であることを知らなかったこと。「玄人はだし」を「素人はだし」と口にしたことなどを紹介し、この年にして、まだまだ道は遠く、暗い、と述べられていた。
飛鳥圭介さんは日本ペンクラブ会員で日本芸術協会会員である。読み書きのプロで、語彙もたいへん豊富な方だ。きっとコラムを面白く読んでもらうために失敗例をあげられたものと思う。私なんぞ飛鳥さんよりずっと年上だ。しかし、認識不足、間違った使い方など挙げたらキリがない。
さすがに、文部省唱歌「故郷」の『うさぎおいしかの山・・』を、『うさぎが美味しい』と間違えるほどあんぽんたんではないと思うが、「姑息な手段」を、一時しのぎとの意味なのに、「卑怯な」という意味で使っていた。「檄をとばす」も、元気のない者に刺激を与え活気付けるような意味と理解していた。自分の主張や考え方を、広く、人々に知らせて同意を得るとの趣旨であることを知らなかった。
恥ずかしい話をさらに披瀝すれば、「姥桜」を、年輪を重ねた老女のことと理解していた。娘盛りをすぎても美しい女性の褒め言葉とは知らなかったし、「爪に火をともす」も、貧乏ぶりを表す言葉として用いていた。
若いころ、私には大恩人の木島喜兵衛先生(日教組出身の県議、衆議院議員)に、「早川君、どの学校を出たのではなく、何を学んだのかが大切なんだぞ」と何回も言われた。星移り時が流れて、とうとう75才。どうも馬齢を重ねただけのようである。
ところで、浅学菲才な私が言うのも変だが、最近、「粉をかける」(女性を口説こうと気軽に声をかけてみる)といった言葉や、「たおやか」(優美な)、「おためごかし」(相手のためにするように見せかけて自分自身の利益をはかる)、「あらまほ・し」(そうであってほしい)など、また生活の中でも「から茶でごめん」(お茶うけがなくお茶だけだす)といった言葉を、とんと聞かない。こんな繊細なニュアンスを含む優雅な言葉を絶滅させてはいけないような気がする。
脇道にそれるが、この原稿を書いているときに我が女房どの、「会員さんに、きょういくが大切ですと仰ったら」と宣うのだ。それは何じゃ? と尋ねると、「高齢者には、今日、行くところのあることが、健康寿命を延ばすことに重要なんですよ」とのこと。
なるほど彼女は、スポーツジムに山登り、太極拳、書道に朗読の会などと毎日大忙しである。「ローバに休日」はない。