渋谷・道玄坂と駒込界隈の懐かしいよもやま話

早川 武男(新潟県退職者連合 会長)

 1年に1回のことであるが、全電通(現NTT労組)時代の上司同僚と、都内で酒・肴に舌鼓をうちながら旧交を暖めている。今年は幹事役が奮闘し大相撲初場所のチケットをゲット、13日目の桝席で鍛え抜かれた力士の真剣勝負を堪能した。

 現役時代、両国国技館には何回か出かけた。だいたい十両力士の土俵入りのころに入場するが、今回は、それまでにかなりの時間と、また懐かしさもあり渋谷・道玄坂と駒込界隈を散策した。

 1998年、長野冬季オリンピックの年に全電通労組はNTT労組に衣替えした。

 私は全電通役員を退き、渋谷・道玄坂に本社があったNTT関係のゼネコンK社に招いていただいた。

 初めての営業職。オフィスで鎮座しているわけにはいかない。積極的に外販活動に勤しんだが、道玄坂は勾配がきつくJR渋谷駅との行き来にはいささか往生した。当時、界隈はガングロ娘が闊歩しており、銀座や表参道などにはない独特の雰囲気を醸しだしていた。ガングロ娘は若さであろう溌剌とした美人が多かった。

 道玄坂には、日本プロレス界のスーパースター力道山が建てたリキ・スポーツパレスの痕跡もある。力道山が関脇の地位を捨て相撲界を去った理由は分からない。朝鮮半島出身者に対する、いわれなき差別に腹をたてやめたとの話もあるが、果たして真相はどうか。バーで暴力団の組員に刺され、それが原因であっけなく亡くなった。酒癖の悪さが災いしたようだが、跡地に建てられたビル脇で、チャンピオンベルトをまいた黒タイツの、在りし日の雄姿を思い浮かべた。

 道玄坂から一寸離れた南平台には、一時代を築かれた三木武夫元総理の記念館もある。公労協の「スト権スト」時の総理だ。今思えば、公労協幹部諸氏は彼に対する右翼の熾烈な圧力と、バルカン政治家の本性を見誤ったのではないか・・。そんな気もする。

 1年半後、電通共済生協の責任者をおおせつかり駒込へ。事務所の生協会館は(現在は神田に移転)、明治の元勲・木戸孝允(本名・桂小五郎)の別邸跡である。会館横には、病気で臥せていた木戸を見舞った明治天皇行幸の碑が。別邸(本宅は京都)では、妻の松子(芸妓名幾松)と住み仲睦ましかったと伝えられる。松子は、木戸が西南戦争のおりに宿痾で没したあと剃髪し9年後に亡くなった。

 会館近くには名勝「六義園(りくぎえん)」がある。徳川綱吉の側用人(後に老中)・柳沢吉保の下屋敷だったところだ。ここで吉保は側室町子と過ごしていた。園内は、これが東京かと思うほど静寂で、シンボル的な大きなしだれ桜は実に見事だ。JR駒込駅近くに染井という地域がある。江戸時代、たくさんの植木屋さんがおられ、桜の代表ソメイヨシノを創りだした。その植木屋さんの代々が丹精を込められたと聞く。

 吉保を「館林の成り上がり者」と言う人もいるが、兄たちの死亡により、棚ぼた式に天下人となる将軍綱吉を支えた極めて優秀な文官ではないか。赤穂浪士の切腹も「忠孝はご政道の第一」と、吉保が、荻生徂徠の言を取り入れ決断したと伝えられる。

 渋谷・道玄坂と駒込界隈の懐かしいよもやま話である。