「田植えの頃」

八幡 輝男

 連休が近づくと、トラクターの音が田園に響き始める。連休を境に茶色一色だった田んぼに水面が広がり、十日余りで水面は爽やかな緑が広がる。農家に生まれた私には、この時期になると子供の頃の田植えの風景が懐かしく思いだされる。その頃はまだ牛や馬が田んぼの主役だった。

 エンジン音の代わりに、牛や馬を急がせる男衆の掛け声が田んぼに響いた。田植は人手が頼みだったので、小学生でも高学年になると苗籠を背負い、三株位を受け持てば立派な田植人だった。

 低学年の子供達も苗運びや、苗配りの手伝いの合間に小川で雑魚採りに興じた。学校も「田植休み」があったが、低学年の子供達には親の手伝いよりも、楽しい遊びが優先する休みだった。

 男衆が「木枠」をころがして付けた跡に植えてゆくのだが、水が深かったり、風が吹くと、植えたあとの水の濁りが広がって木枠の跡が見えづらく、背伸びをして植えたあとの苗の列がずれていないか確かめたりした。それでも列が広がったり、狭まったり、時には一列余計に入ったりした。

 今の田植え機で植える田植は、機械の音もリズミカルで、手際よく植え進んでゆく様子は見ていて心地良い。

 しかし、育苗箱の「モミまき」が不揃いであったり、田植機の調子が思わしくなかったりすると、たちまち五・六株は植え付けないまま機械が先へ進んでしまう。一株、二株を飛ばしてしまうことはよくある。

 田植えが終わって、苗の緑が濃さを増してくると、きれいに植え揃った田んぼと空き株の目につく田んぼがはっきりしてくる。

 以前は「失せ苗植え」といって、植え残した木枠跡に一株一株補植をしたが、今はそんな姿もあまり見掛ないようだ。「失せ株」の目につく田んぼを見かけると「勿体ない、全部植えれば相当獲れるだろうに」と思ったりするのも年齢のせいかもしれない。